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  「5分間で自分の思う住宅を作って!」子どもたちにひとり一枚のB4大のワラ半紙を渡す。授業最初の入り口は、30人の子どもたちが思い思いの「住宅、家、住まい‥」を作ることからはじめた。ただし、紙に描かない・道具を使わないで行うことが条件。
  あとは手で紙を折ったりしても、破いたりしてもOK。立体的でも平面でも自由に作らせてみる。
   5分後、作った住宅にこめた思いや願いなどを一人ひとり、発表。自分の住んでいる現実の家を基本イメージにして、例えば、三階建ての社宅に住む子どもは、紙に三層の折り目をつけ、各層ごとに等間隔で四角の穴をつけて、社宅の窓の並びで住宅を表す子もいれば、「三びきの子ぶた」ならぬワラ屋根の家風といった、絵本の世界からイメージを取り出してつくる子どももいた。なかには、土台づくりからはじまって、「雨をしのぐ屋根、風をさえぎる四方の壁、換気を考えて、風を通す窓をつけてみました。もちろん、南側に大きな窓を」‥と住居の基本要素を網羅して、手際よく作って、見事に紹介する子どももいる。出来上がった形はそれらしく見えないまでも、作ったものに家族の暖かさや家庭の食卓をイメージしてみたというような、空間に漂う、あるいは、空間に占められている息づかいといった心理的、抽象的なイメージで作ったものを紹介する子どもたちもいた。
 「そうかぁ、家には屋根が必要かぁ」「窓って風を通したり、換気のためにあるのね」方角を考えて窓の位置も考えなくてはいけないんだぁ」「家族の夢がこめられているのよ」「へえ、愛も?」
  自分たちが作った紙の住宅を紹介しあう傍らから、子どもたちのそんな声が漏れ聞こえる。子どもたちのなかに「家」「住宅」イメージがふくらんでくる。それは、住宅の機能的要素だったり、そこに住まう家族のあり方や支える心情などといった可視化できない面までも含みこんでいた。互いの紹介やそれを受けてのつぶやきは、家・住宅イメージをどう表現したものか、戸惑っていた子どもたちにもイメージを喚起する力を与える。I という子どもは、この時の感想をこう書いている。
 
「人の住たくのイメージは、いろいろあって、広い庭とかも必要かなと思いました。わたしは、ごちゃごちゃしたようなイメージだった。だけどS君が言ったとおり、くつろぎも必要だと思った」




 
 クラスのみんなが紹介する家イメージにひとつの特徴が表れていた。昔話や現在ただ今のリアリティから喚起されているものだったり、あるいは、未来にこめられた夢や願いであったりと、まさに「家」というものが歴史的時間を生きているかのようなイメージである。時間として「家」を見つめてみたら‥?それも、個人でなくグループで「ひとつの家物語」を作成してみたらどうだろう。子どもたちにとっての「家」イメージが相互の交流によってさらに豊かにふくらむのではないか。こうして、二回目の授業テーマ「お菓子の家を作ろう」が決定した。
 授業は、家庭科の班ごとに、オーブン皿一枚分のクッキー生地から家を組み立て、チョコやクリーム、色とりどりのアイシング、乾燥フルーツなどで飾って、そのお菓子の家の特色とそこに住む人がどんな思いを抱いて暮らしているのかを交えて発表しようというもの。あらかじめ、オーブン皿一枚分の紙に家の設計図をひき、粘土で組み立ててみるという仮構作業をはさんだ。
   「ゼリーで池を形にしない?」「たけのこの里で柵を作ろうよ」「もっと生クリームを屋根からたらして雪の家にしちゃおう」‥、お菓子の家本体づくり当日、家庭科室は、子どもたちのアイディアあふれる声、こえ、コエで熱気に満ちた。子どもたちの「お菓子の家物語」には、「シンデレラ」や「ヘンゼルとグレーテル」「わらぐつの神様」「風邪をひいちゃったサンタさん」などなど、自分たちの小さな頃の思い出としての絵本やおとぎ話・童話の世界が模倣されたり、引用されたりしたものがほとんどだった。お菓子の家をつくって物語りとして発表するというこの一連の取り組みは、グループでの濃密な思い出や意見交流を生み出していった。さらには、なかなか、家イメージを描いたり、表現したりすることに困難さを感じていた子どもたちがグループ交流や協働作業に巻き込まれながら、彼女/彼らたちの家イメージ立ち上げを援助していくこととなった。誰でもが一度は通過する「お話」・ファンタジーという世界。その世界が仲間としての共通の記憶として、子どもたちをつなげたのだろう。時間としての「家」を誰もが十二分に楽しみ、味わったとき、ようやく「住まう」という「住」への学びの構えがクラス全体に整えられたといえたのである。思いもかけないことだった。



 
 「やっぱ、ゲーセンもなくっちゃ」「学校はいらないな」「ねえ、それってまずくない?」「だいじょうぶだよ。本屋とゲーム屋さんがあれば、立ち読みで勉強すればいいし、ゲームのロールプレイングで結構、いろんなこと分かるしさ」・・
 子どもたちが床に置かれた模造紙に自分たちの作った家を配置しながら言い合っている。6回目の授業は、子どもたちによる「街づくり」。ゲストに「まちづくり」の行政担当者を2名招いてあった。まずは、子どもたちが、街に欠かせないものは何かをグループで議論しながら、模造紙にマジックで必要な施設を書きこんでいく。

   さすがに前回の授業が生かされているのか、どのグループも家ごとの日当たりや風通し、方角などを意識して配置していく。子どもたちの作った仮想の街には、子どもなりのこれまでの学びの結果も表れていた。緑や山や川、湖といった自然にあふれ、電線はもちろん地下に。湖には水鳥たちが泳ぎ、空にも鳥が優雅に飛ぶ様が描かれていた。エネルギー問題にはこだわったのだろう。いくつかのグループが街の中で電気をまかなえるようにと工夫をこらしていた。街で自家発電できるようにと発電所が描かれたり、二酸化炭素を出さないという理由で原発を設置したところや何より自然エネルギーだと風車や水車などを設けたところもあった。なかには、子育てママを心配して、幼児の公園デビュー用の公園や子育て談義のためのファミレスが欠かせないよ、いや、それだったら、コンサートホールの方がストレス発散できる・・・などと議論するグループもいた。「なかなかの出来ばえ」と満足気に自信にあふれていた子どもたちだったが・・。 
 しかし、専門家からは、いくつものの問題点を鋭く突かれていくこととなる。子どもたちの街には、スーパーやコンサートホールなどの生活に必要なものとか楽しむ施設は描かれていても、どの街にも信号機や横断歩道等がなく、道路が無規則につくられてしまっていた。そこに専門家から「どの家にも立派な車と駐車場があるけど、車が家の外に出たら・・?」と交通渋滞による市民生活の混乱、特に、火災事故や生命にかかわる救急事態を考えていない無責任さが手厳しく指摘されることとなる。
 
中野区まちづくり公社ニュース 広報「まちづくり館」第23号館 1999年(平成11月7月発行)
 渾身の思いをこめて自然にこだわった、緑の山や川、湖にあふれた街には、洪水や土砂崩れの危険性、防災意識の無防備さなども阪神淡路大震災での生々しい写真とともに指摘されていく。自然・人・モノ等々の様々なる他者に関心を払い、それなりに配慮したつもりの子どもたちだったが、それらの関係性、つながり、特に、秩序あるつながりという視点が全く欠落していたのである。
 「大地震のとき、発電所って危ない」「原発の放射能が漏れたら・・」「確かに、消防署が街にないと大変だよ」「自然が多いと自然の管理が必要なんだ」「街にもいろいろなきまりがあるなんて」「自分勝手はよくないってことか」現実のやっかいさに子どもたちの苦渋がつぶやかれる。こんな感想を書いている。
「おどろいたことは、ぼくたちがいい町にするほど、だめになるということだ。これは、今までいい町にすればいいというぼくの考えを逆転させるものだった。自分のあまさを考えさせられた。」
「普通に暮らしているのに、自分たちがつくったまちには、いろいろと大変な事が起きる。なぜ、今の町はそうならないのだろう?」



 
 「アッ、ほら、ここ、わたしん家(ち)」「あれ、おかしいな、なんど見てもオレん家がない」「私、ここの幼稚園だったんだよ」「ここ空き地になっているけど、マンションが建っているよね」床に広げられた、学校の地域の住宅図を拡大コピーしたものをはりあわせた模造紙2枚分もの広さの地図の上にグループのみんなが覆いかぶさるようにして赤や青のマジックを走らせながら、そんなことをおしゃべりしあっている。今日の授業は、この地図に地域のステキな場所やヒミツのおすすめスポットを書き入れ、紹介しようというものだ。
   「先生、漬け物屋さんからお土産をいただいたよ。」
 「あのね、千川通りが昔は、川だったんだって」
 「驚いたよ。なんと、300年近くも前から建っている古い家があるんだよ」
 家庭科室に帰ってくるなり、矢継ぎ早に興奮して報告する子どもたち。「道行く人に地域への願いをインタビューしたらね、都心では貴重な緑を残しておいてほしいって」「僕たちの方では、歩道の歩きやすさや目にも気持ちのいい緑道にしてほしいって」「私たちのときは、障害者が安心して暮らして住める街だといいのにって」地域の人々との出会いは、街の現在と同時に街の歴史や出会った住人たちの街の記憶とも向き合うこととなった。
   子どもたちの街づくりの提案を、地域の街づくりに関わる市民や専門家の前で披露させ、実現可能かどうかを吟味してもらうことにした。地域の人の夢や自分たちの願いをこめて「こんな街にしたい」と紹介したのである。
 
「僕たちの言い分をしんけんに考えてくれる人がいるということはすごいと思う。便利か自然をとるかはむずかしいと思う。やっぱり、りょうほうがいいけどむずかしい。」
「まちづくりについて、いろいろなことを知った。良くマナーを守ることをよくいうが、守らない人たちがいっぱいいるので守ってほしいと思った。守らないと地球の危キにどんどんせばまり、自分の未来がどうなるかを考えてほしいと思った」



   「街づくり提案発表会」は3クラスが一同に会しての大所帯ということもあって、各グループでの提案を十分な時間をかけて検討することは難しかったが、子どもたちにとってはこうした機会そのものが貴重な経験となったようだった。「今日は、子どものために真けんに話を聞いてくれてとってもうれしかった。」「私たち “子ども”が調べてきたことを“大人”がしんけんに聞いてくれるってすごくうれしいな」
 自分たちの学びが社会に必要とされている、そのことが自分にとっての喜びになるということを子どもたちのことばが物語る。学ぶということが、社会や文化や科学や世界といった様々な素材を媒介にした自分と他者の豊かさの発見・相互における自己実現の過程であるならば、子どもたちの喜びは、まさに、自己実現としての実感であったのだろう。こんな感想を残した子どもがいる。「ドラエモンが来た22世紀は、ほとんど、ロボットや機械にやってもらっていて、自然が少しもない。中野区がそんな所になったら、私は絶対いやです。未来は私達がつくるのだからこれからでも緑や虫をふやしたいです。」
 自分をかけたことばの現れ。未来への責任を我が身に引き受け、真っ直ぐに事柄へと向かう、この真摯な姿勢。子どもたちに兆しはじめた倫理的態度を伴う「自分」の出現は、子どもたちがその身体に公共性を確かに繰り入れたことを教えてくれた気がした。