鯨の背の上の町並み 常陸太田市鯨ヶ丘

◆はじめに
 常陸太田市は、茨城県北部に位置する人口約4.5万人の都市である。中世には豪族佐竹氏の本拠地として、江戸時代以降は水戸徳川家の要衝および棚倉街道の宿場として栄えた歴史を持つ。水戸黄門こと水戸光圀が隠居した地でもあり、町の北方の山中には水戸徳川家の墓所が置かれている。
 水戸駅から水郡線支線の列車に乗り、30分ほどで終点の常陸太田駅に到着する。常陸太田の旧市街地は、駅の北側の坂を上っていった先の、鯨ヶ丘と呼ばれる舌状台地の上に築かれている。鯨ヶ丘という地名は、遠くから見た姿が鯨に見えることに由来するとされる。幅200mほどの台地上には尾根方向に東西2本の通りが伸び、切妻の町家や土蔵造りの建物が軒を連ねる。町並みの両側はすぐ急斜面になっていて、時折丘の下の街や、周囲の山々を見渡すことができる。谷筋の町並みは各地で見られるが、尾根上の町並みは珍しい。
 駅から10分ほど歩くと道が二手に岐れ、「歴史に逢える街 鯨ヶ丘」のモニュメントが出迎えてくれる。この辺りから先が町並みの中心部である。

写真1 鯨ヶ丘の入り口に立つモニュメント 右に立つのは太田町道路元標

◆江戸から現代まで連続する町並み
 西側の通りを進むと、蔵造りの店舗や町家が点在している。写真2の立川醬油店は、江戸時代後期の建物で、登録有形文化財に登録されている。正面の店舗は江戸末期の火災後に建てられたものだが、奥に隣接する主屋はそれ以前の建築と伝わっている。関東の町家としてはつし二階部が低く、重厚感のある構えが特徴である。
 一際目を引く西洋建築(写真3)は、1936年に地元の実業家であった梅津福次郎の寄付により太田町役場として建てられた梅津会館である。1978年までは市役所として利用され、現在は郷土資料館として公開されている。現在市役所は丘の下に移転しているが、戦後に低地の新市街地ができるまで、鯨ヶ丘の周囲は一面の田んぼで、丘の上だけが町場だった。確かにここが町の歴史的な中心地であることを物語る建物である。

写真2 立川醬油店(国登録有形文化財)

写真3 梅津会館(郷土資料館本館、国登録有形文化財)

 東通り(写真4)は店舗として利用されている建物が多く、町家や蔵と大正・昭和期の看板建築が入り混じる商店街となっている。特に、3階建ての袖蔵を持つ土蔵造りの店舗(写真5)や、赤煉瓦造り・3階建ての蔵が目を引く。写真6の旧稲田家住宅赤煉瓦蔵は1910(明治43)年の建築で、登録有形文化財に登録されている。茨城県内では水海道(常総市)にも3階建ての煉瓦蔵があるが、こちらは両端の柱状装飾や上部のコーニスなど、洋風の装飾が豊かな点が特徴である。一方で、屋根の形状や観音開きの扉は日本の伝統的な蔵を思わせ、周囲の町並みによく調和している。
 また、棚倉街道をさらに北上したところに東面して建つ駿河屋宮田書店(写真7)は1810(文化7)年建築で、こちらも登録有形文化財に登録されている。一見しただけでは、築200年を超える建物とは思えないほど良好な状態で保存されている。江戸時代の商家の姿を今に伝える、貴重な建物である。

写真4 東通りの町並み

写真5 店蔵と袖蔵のある店舗

写真6 旧稲田家住宅赤煉瓦蔵(国登録有形文化財)

写真7 駿河屋宮田書店(国登録有形文化財)

◆塩横町の町並みと景観保全の取り組み
 鯨ヶ丘の中程を東西に横切る横町は「塩横町」と呼ばれる(写真8)。これは鎌倉時代に、現・日立市の海岸で生産された塩を太田城下まで運ぶのに使われていたことに由来する[1]。この付近は、現在も古い建物が集中し、町並みの中核をなしている。
 市では、この周辺を「通り塩町地区」として街なみ環境整備促進区域に指定し、1997(平成10)年に整備方針を策定して以来、道路の美装化や小公園整備、住宅や店舗、土蔵・塀に対する修景助成事業等を実施し、景観形成を促してきた[2]。また、住民間でも「通り塩町地区街づくり協定」が締結されており、建物や工作物等の新築・改築をする際に街なみに配慮する合意がなされている[3]。
 小公園の一つである東の辻の広場(写真9)に設置されていた江戸時代末期の古地図を見ると、現代の道路網は当時とほとんど変わっていない。これは、台地の地形に沿って形成された都市構造が、時代を超えて受け継がれてきたことを示している。

写真8 塩横町の町並み

写真9 東の辻の広場

◆坂の風景
 平地との間を行き来する坂道のうち主なものは、太田七坂と呼ばれている。中でも、町を代表する坂としてよく取り上げられるのは、丘の東側に降りる板谷坂(ばんやざか)だ(写真10)。高低差20メートルほどの斜面を一直線に駆け上がる急坂で、坂上からは低地の市街地や遠くに阿武隈山地の南端にあたる丘陵を望むことができる。
 もう一つ、印象に残ったのは、丘の南西に位置する下井戸坂である。この坂は、常陸太田と笠間を結ぶ笠間街道の出発点であり[4]、そのためか坂の中腹に商家風の町家や蔵の並ぶ一角があった(写真11)。台地上の町並みとは異なり、曲がりくねった坂道に沿って町並みが形成されており、独特な雰囲気が感じられた。坂を巡ることで、丘に築かれた町の様々な表情を知り、町の構造を実感することができるのも、この町の魅力である。

写真10 板谷坂

写真11 下井戸坂

◆おわりに
 本記事では、常陸太田市の歴史的な市街地である鯨ヶ丘の町並みを紹介した。かつてこの地は名実ともに太田の中心であったが、現在では市の商業・業務の中心は低地の市役所周辺に移ったと言えるかもしれない。しかし、中心機能が丘の下に移ったことで、開発や更新の圧力が抑えられ、歴史的な町並みが現代まで維持されたとも考えられる。今では丘の周囲も市街化が進んでいるが、町の三方を囲む崖線は、都市空間を区切ることで、丘の上を特別な空間として際立たせている。また、「鯨」の雄大で穏やかなイメージとも相俟って、鯨ヶ丘という名に相応しい町並みであると感じられた。
 懸念として、写真12のように損傷の激しい建物も塩横町近辺で複数見られた。Googleストリートビューで確認したところ、写真の建物の大棟部の損傷は10年以上前から見られ、東日本大震災での損傷が現在まで修復されていない可能性が高い。また、郷土資料館に程近い十王坂上の空き地にはかつて蔵造りの建物があり、郷土資料館分館として利用されていた。しかし、郷土資料館でお話を伺ったところ、東日本大震災で大きく損傷し、復旧は叶わずそのまま解体に至ったとのことであった。
 鯨ヶ丘では、2006(平成18)年に常陸太田市による景観計画の策定を念頭に置いた景観まちづくりワークショップが茨城県主導で行われたが、2025年現在まで策定には至っていない。このことが、町並み保存にどの程度影響しているかは明らかではないが、他地域では景観計画の策定と景観行政団体への移行を契機に、自治体が景観形成に責任を持つことが明確になり、修景助成制度の導入に繋がった事例もある[5]。歴史的建造物の保存については、店舗等の収益性のある活用による保存が重視されることが多い。しかし、店舗利用が見込まれない住宅についても、所有者の負担に任せるのではなく、周囲の町並みへの寄与を評価し、補修や修景に対する公的支援を検討する必要があるだろう。
 今後、鯨ヶ丘の中心部に残る町家や蔵がさらに失われれば、町並みにとっては大きな損失となる。厳しい状態であると見られるが、建物が適切に修復され、末永く町並みが維持されることを期待したい。

写真12 大棟に損傷のある町家


(文責・写真:大草裕樹)

◆参考文献
[1] 【集中曝涼】鯨ヶ丘の文化財(駿河屋宮田書店店舗兼主屋・旧稲田家住宅赤煉瓦蔵・立川醤油店店舗及び主屋) | 常陸太田市公式ホームページ https://www.city.hitachiota.ibaraki.jp/page/page009084.html
[2] 茨城県(2007), 景観計画策定手法の検討及び景観まちづくりワークショップの実施に関する業務報告書 https://www.pref.ibaraki.jp/doboku/toshikei/kikaku/keikan/documents/keikanwork.pdf
[3] 茨城県(2001), まちづくり情報誌「つどえ~る!」第1号 https://www.pref.ibaraki.jp/doboku/toshikei/kikaku/machi/tsudo5.html
[4] てくてくウォークマップ(太田地区) | 常陸太田市公式ホームページ 太田七坂コース(2019年8月号) https://www.city.hitachiota.ibaraki.jp/page/page003603.html
[5] 高木 悠里・嘉名 光市(2021), 「わが国における地域団体による景観マネジメントの現状と岡崎市藤川宿を事例とした景観マネジメントの展開プロセスに関する研究」, 都市計画報告集Vol. 20, No.3, pp. 306-312