空き家から誰にでもひらかれた場へ
災難続きで今回は変則な取材になりました。
房総半島南部に位置する館山の空き家だった茅葺民家に、岡部明子さん達が10年以上に亘って手を加え、使い続けてきた「ゴンジロウ」。私はたまたまその初期から何度か訪れていましたが、ここ数年はご無沙汰していましたので、その間の変わりようを見てみたいと思っていましたし、とても興味深い事例なので、この連載を一緒に続けてきた鈴木毅さんと佐藤考一さんには是非見てほしいとも考えていました。そこで、2019年の秋に岡部さんと一旦お約束をしたのですが、取材予定日の直前に房総半島は非常に強い台風に襲われ、あちらこちらで大きな被害があり、取材は2020年に延期することにしたのです。ところが、今度はコロナ禍という予想外の事態で、訪問自体は少し様子を見てからということにあいなりました。ですので、先ずはオンライン会議方式で岡部さんのインタヴューをしておこうということになったのです。本稿を執筆している時点で、まだゴンジロウには行けないままでいます。ただ、読まれておわかり頂けるように、写真等も多く見せて頂きましたし、かえってじっくり岡部さんの考えを聞くことができて、その点では、先ずオンラインでお話を伺うというのは案外良かったかもしれません。
さて、前置きが長くなりましたが、私がゴンジロウを面白いと思ったのは、「共感」を信じないと明言する岡部さんのまわりに、どういう訳だか周辺の住民の方々や学生さんや遠隔地の職人さん達が、入れ替わり立ち替わり集まってきて、空き家が人々にひらかれた場に姿を変えてきたというその事実です。
空き家や空きビルを活用してまちづくりを進める人々の中には、まちの人々の「共感」をよすがにしている方が少なくないと思いますし、その「共感」があるからこそリノベーションまちづくりが前に進むのだと思わせる事例も決して少なくありません。ところが、「共感」を信じないと明言する人が中心になって、空き家を人々にひらかれた場にし得ていることに、妙な言い方ですが、「共感」してしまうのです。その背景には、仲間やコミュニティに属するかどうかは関係なく、誰にでもひらかれた場を指向する岡部さんの考えがあるようです。
今回のお話で面白かったことはいくつもありますが、もう一つだけ挙げるとすると、ゴンジロウの話をもう何度も岡部さんから聞きましたが、その都度テーマが違っているということです。「考えるためにゴンジロウを続けている」という岡部さんの動機からすれば、考えているテーマが変わっていくのはある意味当然のことのようですが、「空き家は社会の外」というテーマ、或いは「所有権の問い直し」というテーマは、今回が初耳でした(ライフスタイル考現行「社会システムの〈外〉として空き家(次回更新予定)」もご覧下さい)。
南米やアジアのスラムを研究対象にしている岡部さんならではのテーマ設定だと思います。スラムは「インフォーマル居住地」とも言われるように、所有権とは無関係に成立していることが多いですし、「社会の外」にあるという表現が当て嵌まります。岡部さんは、それと同じ性質を日本の空き家に見ようとしているのです。その思考が何に繋がっていくのか、私にはまだわかりませんが、ラディカルな思想に繋がる予感を持つには十分な岡部さんの話ぶりではありました。とても楽しみです。
(松村秀一)
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