まちなみと歴史 〜歴史的土地利用が息づく現代のまちなみ〜

はじめに

明治時代から現在に至るまで,人口の増加にあわせて日本各地で大規模な開拓や開発が行われました.歴史的都市の郊外部に新たな市街地が形成される事例は数多くありますが,城下町など近世までに栄えた都市はその名残を現在も地名やまちなみにとどめています.
たとえば,和歌山市では旧城下町の中心市街地を避けて鉄道路線網が整備されたため,現在の街区割は大規模な開発の影響を受けることがなく,城下町時代の街区割の名残をみてとれます.ほかにも図2・図3の弘前・長崎の2都市のように町人地由来の地名は各地の旧城下町に数多く残されていますし,領主の屋敷が近代以降に公共施設へと転用される事例も全国的に見られます.


図1:和歌山市の街区割

図2(左図),図3(右図):弘前市,長崎市市街地の町字名

そこで,今回はかつて世界有数の大都市に数えられた江戸城周辺の土地利用に着目して,まちなみを構成する要素のひとつである現在の土地利用との関係を探ってみましょう.

分析方法とデータの概要

今回の分析では,江戸時代の土地利用(以下,歴史的土地利用)のデータとして,人文社発行「天保14年 天保御江戸絵図」に基づいて歴史的土地利用を現在の地図に重ね合わせられるように図化したデータを利用します.また,現在の土地利用のデータとしては,国土交通省国土政策局国土情報課が公開する都市地域土地利用細分メッシュデータ(平成28年)を利用しました.都市地域土地利用細分メッシュデータは100m四方の区画ごとにその中で代表的な土地利用区分が入力されているデータです.
歴史的土地利用の区分としては「大名屋敷」「武家屋敷」「寺社」「町人地」の4区分があり,現在の土地利用区分は「田」「その他の農用地」「森林」「荒地」「高層建物」「工場」「低層建物」「低層建物(密集地)」「道路」「鉄道」「公共施設等用地」「空地」「公園・緑地」「河川地及び湖沼」「海浜」「海水域」「ゴルフ場」の17区分からなります.しかし,対象地域には「田」「その他の農用地」「荒地」「海浜」「海水域」「ゴルフ場」は存在せず,全11区分(下表参照)となりました.
現在の土地利用メッシュデータの領域と歴史的土地利用データを重ね合わせ,メッシュ区画内でもっとも代表的だった歴史的土地利用をそのメッシュの土地利用として図4のように関連付けました.対象地域のメッシュデータには,代表的な歴史的土地利用区分と現在の代表的な土地利用区分がそれぞれ格納されていることになります.なお,江戸時代の絵図における各土地利用の図形データと現在の地図と関連付けるため,不忍池や皇居内濠のような改変されづらい地形を目印にして図形を補正し重ね合わせました.その結果,隅田川も大きく形状を変化させていないことが示唆されました.


図4:データの重ね合わせ手法

表:都市地域土地利用細分メッシュデータにおける土地利用区分の定義
※低層の商業用・業務用建物などの都市地域細分メッシュデータ作成にあたって衛星写真や地図記号からの判読ができないものについては「低層建物」として分類されています.

結果

まずは,歴史的土地利用と現在の土地利用の概況を把握しましょう.
江戸城の丸の内には大名屋敷と武家屋敷が集積するほか,全体の傾向として東側に町人地が多く,西側に大名屋敷・武家屋敷が多いことが読み取れます(図5・図6).江戸時代の開発は高燥で良好な住環境のであった台地上から行われ,大名屋敷・武家地・寺社が配されました.その一方で,そうでない場所,つまり低地・谷地には町人が住んだようです.丸の内の大名屋敷は外縁部に位置する大名屋敷と比較すると面積が狭い傾向にあります.城郭付近の大名屋敷は上屋敷と呼ばれ,日常生活に使用される屋敷であるのに対し,外縁部に位置する下屋敷には別荘地としての役割があり,水辺や森林などの庭園を持っていたことに起因します.


図5:江戸時代の土地利用区分

図6:歴史的土地利用区分ごと面積割合(左:全域 右:城東地域(皇居よりも東側の地域))

現在の土地利用はその8割近くが高層建物・低層建物であり,ついで公共用地,森林と続き,空き地や工場などの土地利用はほとんどみられません.


図7:平成28年の土地利用区分

さて,ここからは今回作成したデータを用いて,歴史的土地利用がどのように変遷したかを整理していきます.


図8:歴史的土地利用・現在の土地利用区分クロス集計結果


図9:歴史的土地利用区分ごとの土地利用変遷割合

「高層建物」「低層建物」「低層建物(密集地域)」

対象地域のほとんどを占める土地利用です.寺社は他の土地利用よりも低層建物に変遷する傾向が強いようです.かつての檀家に由来する密集地が多いことが読みとれます.


図10:寺社周辺の低層建物地域(上野)


図11:寺社周辺の低層建物地域(浅草)

「河川地および湖沼」

河川地および湖沼として分類されているメッシュは,江戸時代に大名屋敷や町人地であったものが多いことがわかります.前述の通り,大名屋敷では庭園内にため池などの湖沼を有していたことや屋敷沿いの崖線に流れる河川を景勝として屋敷に取り入れたことなどに起因していると予想されます.また,東南部の低地には運河が発達していたため,各国の蔵屋敷が数多くありました.現在も運河が河川として姿を残している場合は,運河沿いの蔵屋敷も河川地および湖沼として分類されたといえます.
また,運河沿いには魚河岸も形成されました.そこでは城内に持ち込まれなかった粗悪品が売買され,城東の運河沿いには町人地が数多く位置していました.
なお,隅田川は形状を大きく変化させていないため,流路の変更によって現在の土地利用が河川地および湖沼になったケースはほとんど確認できませんでした.


図12:運河沿いに分布する町人地(深川周辺)

「公園・緑地」「森林」

現在の土地利用に着目すると,公園・緑地と森林は隣接していることが多く,変遷の傾向も似ているためまとめて考察しましょう.どちらも大名屋敷からの変遷が多くみられます.
これもまた前述の通り,比較的面積の広い下屋敷の庭園が公園や森林へと姿を変えた事例が多い他,都心部では皇居の内堀周辺や日比谷公園なども同様の変遷を遂げています.


図13:公園地として利用される大名屋敷(新宿御苑や赤坂御所)

「公共施設等用地」

公共施設等用地は町人地からの変遷が少なく,それ以外の土地利用からの変遷が軒並み多いです.明治維新後,大名屋敷や有力な武家屋敷などを接収し,そのまま居抜きで新政府の官公庁へと転用した経緯もあり変遷の割合が高くなっています.また,公共施設等用地には公営の墓地も含まれるため寺社からの変遷が多くなっています.


図14:官公庁として利用される大名屋敷(霞ヶ関周辺)

「道路」

城東において,町人地は街道に面して分布し,その背後に武家屋敷や小規模の大名屋敷が位置しています.そのため,かねてより街道であった幹線道路の周辺はかつて町人地として利用されたものでした.


図15:街道沿いに分布する町人地(両国周辺)

おわりに

本稿では,現在の土地利用に息づく歴史的な土地利用について,江戸と現代の地図を比較して考察しました.大名屋敷は公園・緑地,森林や公共施設等用地の中に息づき,寺社は領域を狭めながらも霊園や低層建物の密集地域に名残をとどめています.町人地のほとんどは市街地へと姿を変えましたが,かつての運河や街道が現在も河川や道路として残っていることも示唆してくれました.
今回の考察では武家屋敷について特徴を掴むことができませんでした.町人地同様,武家屋敷の多くが建物用地へと変遷してしまったため,今回用いた土地利用区分では用途の差別化ができなかったことに問題があると考えています.
土地利用区分では傾向がつかみづらくても,地名に着目すると新たな発見があるかもしれません.たとえば,千代田区駿河台や千代田区六番町など武家屋敷に由来する地名は数多く残されています.まちを歩きながら今いる場所がどのような歴史を辿っているのか思いをはせてみるのも面白いかもしれません.

謝辞

本研究は東大CSIS共同研究No.910 の成果の一部です(天保14年天保御江戸絵図データ (Shape形式) データセットを利用).ここに記して謝意を表します.

参考

掲載した地図はすべてOpen Street Mapを用いて作成しています.
1) 粟野隆, 服部勉, 進士五十八. (2002). 明治期東京における庭園空間の成立と構成.ランドスケープ研究.65(5): 379-382
2) 松本泰生, , 戸沼幸市. (2004). 東京都心部における斜面地景観の変容. 日本建築学会計画系論文集.577: 119-126

文責:山本裕稀,伊藤大貴,木村太泉,水谷京弥

写真収集:伊藤大貴,木村太泉,水谷京弥